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■漢語、漢字の書き分けと書き表し方及び読み方■

 

(常)を付けた語は、「常用表」の例欄に例示の語、

(文)を付けた語は、「文部用字」の備考欄(具体的な使用例)に例示の語 

であることを示します。

 

あたたかい・あたたまる・あたためる

[暖かい・温かい  暖まる・温まる  暖める・温める]

<小さな手袋 ・ 内海隆一郎>

 「ううん。雑木林の中は温かいんだよ。それに、あたしがおばあちゃんのショールの中に一緒に入っていると、とっても温かいんだって。…」=「学図中1・119頁」(原作どおり)

「ううん。雑木林の中は暖かいんだよ。それに、あたしがおばあちゃんのショールの中にいっしょに入っていると、とっても暖かいんだって。…」「三省中2・11

なぜ、同じ作品が、教科書ごとに異なるのだろうか。

「検定基準」の国語科固有の条件には、「学習指導上の配慮による表現内容の改変は最小限にとどめ、原則として、原作を尊重していること」参考資料「検定基準」参照と定められています。

「学図中」は、「原作を尊重」し、

「三省中」は、「学習指導上の配慮による改変」

ということになります。

どちらも、理由が成り立つから、「検定基準」を通過したのだろうが、子供達には、「暖かい」と「温かい」の書き分けを理解することはできない。

この場合は、どちらかに統一するべきであろう。この統一を「画一的」とは言わない。

「部屋を温める」=「教出小5上・490頁」

「部屋を暖める」=「東書小6上・101頁」

同じ用例文で違っています。これでは書き分けを学ぶことはできません。「検定基準」には、

「図書の内容に、誤りや不正確なところ、相互に矛盾しているところはないこと」

「児童・生徒がその意味を理解するのに困難であったり、誤解したりするおそれのある表現はないこと」

「漢字、仮名遣い、送り仮名、…などの表記は適切であって不統一はなく、…」

とあります。このいずれにも抵触するのではないでしょうか。

「地球の表面が暖まる」「暖まった地表からは…」「空気が暖まる」「地球を暖める」=「大書小6上・72頁」

 

<太陽エネルギー・磯部 e三>=「日書小5下・30頁」

「太陽の光が当たる所では、あたたかく感じます」=「30頁」

「わたしたちの体を温めてくれるからです」=「30頁」

「水は、…太陽エネルギーによって温められて…」=「32頁」

ここでも、使い分けがあいまいです。

「広辞苑」には、

「暖」は気温・空気などに、「温」は身体・料理・気持ちなどに使うことが多い。

 

「ベネ小」には、

は「温かい料理」のようにおもに物や気持ちについて使う。「温かな心」

は「暖かな日ざし」のようにおもに気温について使う。「暖かい毛布」

 

「小館小」には、

気候には「暖」をそのほかは多く「温」を使う。

とあり、いずれもあいまいです。他の辞典もほぼ同じです。

 

「異字同訓」には、

暖かい・暖かだ・暖まる・暖める―暖かい心。暖かな毛布。暖まった空気。室内を暖める。

温かい・温かだ・温まる・温める―温かい料理。温かな家庭。心温まる話。スープを温める。

とあり、辞典の解説とほぼ同様ですが、「暖かい心」が違うのです。

 

「辞典」では、

「温かい心」=「偕成小」 「温かな心」=「ベネ小・中」 「温かい心の人」=「三省小」

「温かい(な)気持ち」=「三省小」「光村小」

 「心が温かい(な)人」=「旺文小」「学研小」

 

「学研現・27頁」では、

「『異字同訓』の漢字の使用法」(国語審議会)では、一般に「温かい心」とするところを「暖かい心」と示すなど、その使い分けには微妙なところがある。

と解説しているものもあります。また、新聞、放送なども「温かい心」を使っています。

このように、辞典や一般の社会生活の中で使われていない「暖かい心」が、「国語審議会」の発表されたものにあるのですから、混乱するのは当然です。

これは、「参考資料」として文部省に提出されたものですが、これが、世の中に公然と出回っていることも、

不思議なことです。

 

学校教育では、「微妙なところがある」として、あいまいにすることはできません。

この資料は、昭和47年6月28日の国語審議会総会における「当用漢字改定音訓表」の審議に際し、配布されたものです。言葉は生きものとも言われます。見直されてはいかがでしょうか。

 

「温かい」と「暖かい」の使い分け 「問答集」参照

 

 

あらわれる[現れる・表れる]

「新聞で宣伝した効果が現れました」=「学図小6上・126頁」

「効果が表れる」=「東書小6・102頁」

「効果があらわれる」「成果があらわれる」を辞典で調べてみると、

「効果が現れる」=「学研中・現・大」「ベネ中」「小現例」「小類語」「大辞林」「大辞泉」「小館大」

「成果が現れる」=「公文小」「小館小・中」「旺文国」

であり、

「薬の効果が表れる」=「公文小」

でした。

*「問答集」には、

 

 

太陽が地平線から姿を現す。 新人の中では、彼ががぜん頭角を現してきた。  長年の努力の積み重ねが、ようやく成果を現した。  一日一日と危険な症状を現している。 などのように、今まで隠れていたもの、今までなかったものを表面に出すという意味の場合は、「現」を使うようである。

 

とあり、

 

*「異字同訓」では、

 

 

表す・表れる―言葉に表す。喜びを顔に表す。喜びの表れ。

現す・現れる―姿を現す。太陽が現れる。怪獣が現れる。

 

 

であり、ここでは「効果(成果)をあらわす」は、どちらを使って書くかは分かりません。

 

結局のところは、「問答集」と辞典の多くが、「効果が現れる」としていますから、教科書もこれを提示するのが穏当かと思われます。

 

おやゆずり[(常)親譲り・親ゆずり]

<坊っちゃん ・ 夏目漱石>

「親ゆずりの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている」=「光村中1・92頁」

「親譲り」=「三省中1・211頁」

原作=「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る」

「親譲り」は、「常用表」の例欄に例示の語でもあります。

 

 あまりにも有名な文学作品の冒頭の一節が、なぜ、「親ゆずり」にしなければならないのでしょうか。出版社と検定官のご意見を伺いたいものです。このような作品の引用は、原典どおり提出する方が、より学習に深まりが出るのでないでしょうか。例えば、「小供」は、現代の辞典にはありませんが、「小供」を辞典で調べさせると、「こいぬ」は【小犬・子犬】、「こねこ」は【子猫・小猫・仔猫】とあることが分かったりもして、辞典に関心を持つようになったりするものです。ただし、「こいぬ」「こねこ」の見出し語を掲げている辞典は、大辞典だけです。これも不思議なことです。

[ぼっちゃん ・ ぼつちやん]

「坊っちゃん」=「学図中3・318頁」「教出中3・318頁」「東書中3・288頁」「光村中1・92頁」

「坊つちやん」=「三省中3・付録 28頁」

夏目漱石の作品「ボッチャン」は、「坊つちやん」と、「つ」と「や」が小書きではないのです。

「三省中」のみが「坊つちやん」で、他の4種は「坊っちゃん」である。これは、「検定基準」にいう不統一

ではないでしょうか。

 

こいぬ[子犬・小犬]

<五月のはじめ、日曜日の朝 ・ 石井睦美>

「子犬のくせにけっこう速い。」=「教出小5上・10頁」

「子犬なのにけっこう速い。」=「学図小5上・15頁」

原作は、「小犬のくせにけっこう速い。」です。

「小犬」が「子犬」に、「くせに」が「なのに」に改変されています。

「小犬」と「子犬」は、意味にちがいがあります。

 

「・・・小犬のような、そして獰猛な動物だという…」<故郷・魯迅 ・ 竹内 好訳>=「中3全教科書」

があります。ここでは、「小犬」を「子犬」とすることはできないでしょう。

作者が、「小犬」と表現したものを、「子犬」と改変するとは傲慢としか言いようがありません。

 

こうい[好意][厚意]

<「ありがとう」と言わない重さ・一の瀬 恵>=「三省中3」

「実に淡々と相手の好意を受け入れている」=「236頁」

「相手の好意に対する感謝の気持ちを…」「まるで相手の好意を買っているみたいで…」=「239頁」

「相手の好意に対する感謝の気持ちを表現します」=「245頁」

*「問答集」には、

 

コウイ的 コウイを持つ コウイを抱く コウイを寄せる コウイが芽を出す コウイを感じる

などの場合は、普通、「好意」が使われ、

コウイを受ける コウイを感謝する コウイを喜ぶ 

などの場合は、「厚意」が使われる。

 

とありますように、この教科書の「好意」は、「厚意」ではないでしょうか。

 

こもれび[木もれ日・木もれ陽]

「木もれ()がまぶしいということ」 <詩 生きる・谷川俊太郎>=「東書小5下・110頁」

「木もれ日がゆれて…」 <ちょうの行方・高田圭子>=「教出小6下・64頁」

「こもれび」という陰翳のある言葉は、「木もれ陽」がぴったりです。前段は「詩」ということで、原作どおり「木もれ陽」を提示し、後段は、「常用表」で、「陽」には「ヨウ」の音だけしか掲げられていないこともあり、「木もれ日」となっているのでしょう。この「木もれ日」だけでも、現行の教科書での国語教育は貧弱といわざるを得ません。現行の辞典も、ほとんどは「木漏れ日・木洩れ日」のように「日」だけです。

これでは、「常用漢字表辞典」といえそうです。

ただ一つだけありました。こもれび【木漏れ日・木洩れ陽】=「大辞林(三省堂)」です。

「常用表」に、「陽(ひ)」の読み方を掲げていないからといって、教科書(国語科)で用いてはならなという規定はありません。また、用いなければならないことが当然あります。例を挙げておきましょう。

 

ゆうひ[夕日・夕陽]

 

「『そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲の間から、夕陽は赤くななめにこけの野原にそそぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました』とあります。目をつぶって想像してみてください。夕陽の赤、白い火のようなすすきが見えてきませんか」<鹿(しし)踊りのはじまり・宮沢賢治>=「大書小6上・83頁」

これが「夕日」であったらどうでしょうか。

 

「陽射しがたくさん地上に刺さり」<虹の足・吉野弘>=「教出中2・82頁」

「陽射し」の「射」は、「常用表」では「さす」の読みはありません。だからといって、ここでは「日差(指)し」にはできないのです。

「オレンジ色の夕陽の中で、…」<時の輝き・折原みと>=「光村中1・86頁」

「一番高い山の端に陽がおちる」<五月の雉・蔵原伸二郎>=「光村中2・141頁」

 

「光村中3・139頁」に、このようなものもあります。

 

【表現に学ぶ】

さまざまな表現

〈精細に自然を描写した文〉

「中の海の彼方(むこう)から海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い灯台も陽を受け、はっきりと浮かび出した。まもなく、中の海の大根島にも陽が当たり、…」<暗夜航路・志賀直哉>

これも、「陽」が「日」であったらどうでしょうか。

 

さがす[探す・捜す]

「いっそう夢中になってわたしたちの姿を探し、…」<巨鯨の目・水口博也>=「光村中1・215頁」

「一層夢中になってわたしの姿を捜し、…」<クジラが人間を注目し始めた・水口博也>=「学図中2・86頁」

作者が同じで、ほぼ同じ内容のものが、「…を探し」「…を捜し」と漢字表記が違います。これは「探」と「捜」の持つ意味が異なりますから、どちらかが不適切ということになります。

筆者は、「探し」がよいと思います。

「捜す」と「探す」の使い分け 「問答集」参照

 

じゅうぶん[(文)十分・充分]

「幸治には僕の分も充分に勉強させてやって下さい」<兄からのはがき・佐江衆一>=「三省中1・224頁」

「めしべとおしべが揃っているだけでは不充分で…」<生命(いのち)は・吉野 弘>=「東書中3・8頁」

「文部用字」=「じゅうぶん」の書き表し方は、「十分」とし、「十分配慮する」「不十分である」の使用例を示していす。

 

しあわせ[幸せ・仕合せ]

<坊っちゃん ・ 夏目漱石>

 

「あなたはおかわいそうだ、不幸せだとむやみに言うものだから、それじゃ、かわいそうで不幸せなんだろうと思った」=「光村中1・102頁」

原作は、

「あなたはお可哀想だ、不仕合せだとむやみに言うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った」

日本の代表的な文学作品を引用するねらいの一つに、作者の用いた文字表現を学ぶことがあります。それを、現代風に変えてしまっては、学習効果は失われてしまいます。「仕合せ」は現代文でも使われているのです。

 

「…本当に仕合わせであった」<包む・やまだ ようこ>=「教出中2・177頁」

 

ちりばめる[ちりばめる・散りばめる]

「宝石のかけらを散りばめたようにも見えます」<流氷の世界・菊池慶一>=「大書小5下・107頁」

「ふたには小さなダイヤモンドが散りばめてあった」<二十年後・オー=ヘンリー ・ 大津栄一郎訳>

=「学図中1・104頁」

「ちりばめる」の漢字表記は、どのように書き表すのでしょうか。

小学生用辞典では、ほとんど「ちりばめる」と仮名書きです。漢字表記は、

ちりばめる【〈(×)める〉】(×=常用漢字表外の印)=「偕成小」「小館小」にあり、中学生用以上の辞典は、すべてこれで、中には、「散りばめる」は誤り、との注意書きがあるのもあります。

「鏤める」は、表外漢字ですから、小・中学校の教科書では、

「一面光の斑点をちりばめている」<カワセミ・図子英雄>=「三省中3・83頁」

「…緑や、美しい光でちりばめられてありました」<銀河鉄道の夜・宮沢賢治〈原作〉>

=「光村中1・254頁」

 

と仮名書きとされ、漢字で提示する場合は、当然、「鏤める」です。

いずれにせよ、「散りばめる」は、日本語ではありません。それが、以前から教科書で提出されているのですから呆れてしまいますし、恥ずかしいことです。

 

であい[出会い・出合い]

「大書小」

「こういうイヌのしぐさに出会ったら、…」=「3上・17頁」

「…目新しいものや耳慣れないことに出会ったとき、」=「6上・28頁」

「一枚のポスターとの出会い」=「6上・48頁」

「わたしの疑問に答えてくれる、いくつかの資料と出会った」=「6下・36頁」

 

「学図小・中」

「…美しいものに出会った時、」=「小3下・47頁」

「最近出会ったことの中から材料を見つけて…」=「小4下・43頁」

「いさむは、亀八という老犬との出会いによって、」=「小6下・70頁」

「不思議な光景に出会った」=「中3・93頁」

「大学通りを行き来する馬に出会うことがあったが、」=「中3・113頁」

 

「教出小・中」

「しっぽの生えたとかげに出会った時」=「小4上・18頁」

「くり返して同じようなできごとに出会うたびに、」=「小5下・88頁」

「新たな出会い」=「小6下・111頁」

「筆者は『石』と出会ったばかりでなく、バルセロナの『暮らし』そのものと出会った」=「中2・80頁」

 

「東書小・中」

「もうどう犬は…そこではいろんなことに出会います」=「小3下・56頁」

「シマウマの群れに出会えたのは…」=「小5上・57頁」

「人間と暮らす馬や牛、犬や猫たちに出会えます」=「中2・96頁」

「私は一つの困難に出会った」=「中2・236頁」

 

「光村小・中」

「(フクロウ)…なかなか出会えない」=「3上・5頁」

「このヤドカリは、もう一ぴきのヤドカリに出会いました」=「3上・22頁」

「こわい動物に出会ってしまいます」「こわそうな動物に出会ったり」=「3下・76頁・78頁」

「月の光をたよりに、みみずくとの出会いを求めて、…」=「5下・94頁」

「初めて出会う漢字でも、…」=「6上・52頁」

「すべての美しいものに出会うということ」=「6下101頁」

「これからは、苦しいことに出会っても、…」=「中1・180頁」

 

「三省中」

「最近つくづくカバと出会えて…」=「1・104頁」

これらの教科書では、このように、人と人との「であい」以外の場合でも、「出会う」を用いています。

この教科書で学んだ子供達は、「であう」は、「出会う」と書くものと刷り込まれてしまうことでしょう。

この「であい」を、「出会い」・「出合い」と見事に書き分けて提出している教科書が一つだけありました。

それは、「わたしたちの小学国語(日本書籍)」にです。

「松井さんが出合った不思議な出来事や…」=「4上・42頁」

「こうして出合ったおすとめすは…」「おすとめすが出合うための…」=「4上・49・50頁」

「三千年の昔、そのいねと初めて出合った先ぞたちは、…」=「4下・83頁」

「わからないことに出合ったら…」=「5下・77頁」

「心に強く感じる言葉や文章に出合ったら…」=「5下・94頁」

「地震に出合う前の…」=「6上・42頁」

また、

「同じことに出あったときでも…」<みんなのなかで生きる・田宮輝夫>=「6下・70頁」

のように、仮名書きが穏当としているものもあります。

 

さらに、

「私たちは、これまでに教科書や図書室の本などで、たくさんの詩に出会いました」=「6上・44頁」

これは、「詩に出合いました」ではないのか、という人もいるかも知れませんので触れておきます。

この「詩に出会いました」に後に、

「詩人の書いた詩を読んで、表現のおもしろさ、豊かさに感心し、心が動かされたことがありました」と続いています。

「詩人の書いた詩」という、人と人との「であい」の場合の比喩的用法であり、自然な書き表し方です。

 

この教科書で学んだ子供達は、この「であい」の漢字の用法だけで、言葉のおもしろさ、豊かさに触れることができるのです。

一般的に、教科書は正しいものと受け止められていますから、作者や教科書出版社の提出のままですと、ともすれば、偏向することになり、辞典などに影響し、混乱しかねません。

ここで、その混乱している例を挙げておきます。

 

小学生用の国語辞典に、「出合う」が掲げられていないものが出てきます。

「学研小」「偕成小」・「文英小」・「光村小」には、「出合う」が掲げられておりません。

「光村」は、「光村図書発行の教科書の表記を基準としている」といいます。

「学研」は、「小学校の教科書でも会の使用のみですから、学研としましては、小学校の辞典では会のみを標準表記としています」「教科書は文部省の検定を受けていますので、私共は漢字の使用につきましても、文部省の見解であると理解しております」というのです。

 

また、学校、学習塾などで「出会う」だけしか教えかねません。

現に、全国に展開する「学研教室」の「実力診断テスト(小4学年対象)」に、

「ふとライオンに 〔であ〕う などということは、めったにありません」

この 〔であ〕う を漢字で書きなさい という問題があります。

解答集には、「出会う」とあり、「出合う」は×であるというのです。その理由は、「このような場合も、教科書ではすべて『出会う』であるからです」というのです。

教科書は、お手本ですから、その影響は絶大です。

 

子供達は、「会う」と「合う」の書き分けを学習しています。「出合う」は学習していません。それでも、「ライオンは動物だから…」と考えて、「出合う」と答えるのです。なんと自然で、純粋な解答でしょう。これを20年以上も×として切り捨ててきたのです。子供達にとって、この×はとても重いものです。学研教室は、当然、謝罪すべきでないでしょうか。この当たり前のことができなくて、教育改革を論ずる資格はありません。

「出会い」か「出合い」か 「問答集」参照

なお、この学研教室のことにつきましては、

http://homepage2.nifty.com/YOSHIMI/

で、

「学校教育を補完する」という「学研教室」の教材について、小・中全学年分を指摘しております。この種、教育産業の実態を垣間見ることができます。

 

ととのえる[整える・調える]

「したくを整える」=「教出小3上・44頁」

「服装を整える」