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■漢語、漢字の書き分けと書き表し方及び読み方■

 

(常)を付けた語は、「常用表」の例欄に例示の語、

(文)を付けた語は、「文部用字」の備考欄(具体的な使用例)に例示の語 

であることを示します。

 

あたたかい・あたたまる・あたためる

[暖かい・温かい  暖まる・温まる  暖める・温める]

<小さな手袋 ・ 内海隆一郎>

 「ううん。雑木林の中は温かいんだよ。それに、あたしがおばあちゃんのショールの中に一緒に入っていると、とっても温かいんだって。…」=「学図中1・119頁」(原作どおり)

「ううん。雑木林の中は暖かいんだよ。それに、あたしがおばあちゃんのショールの中にいっしょに入っていると、とっても暖かいんだって。…」「三省中2・11

なぜ、同じ作品が、教科書ごとに異なるのだろうか。

「検定基準」の国語科固有の条件には、「学習指導上の配慮による表現内容の改変は最小限にとどめ、原則として、原作を尊重していること」参考資料「検定基準」参照と定められています。

「学図中」は、「原作を尊重」し、

「三省中」は、「学習指導上の配慮による改変」

ということになります。

どちらも、理由が成り立つから、「検定基準」を通過したのだろうが、子供達には、「暖かい」と「温かい」の書き分けを理解することはできない。

この場合は、どちらかに統一するべきであろう。この統一を「画一的」とは言わない。

「部屋を温める」=「教出小5上・490頁」

「部屋を暖める」=「東書小6上・101頁」

同じ用例文で違っています。これでは書き分けを学ぶことはできません。「検定基準」には、

「図書の内容に、誤りや不正確なところ、相互に矛盾しているところはないこと」

「児童・生徒がその意味を理解するのに困難であったり、誤解したりするおそれのある表現はないこと」

「漢字、仮名遣い、送り仮名、…などの表記は適切であって不統一はなく、…」

とあります。このいずれにも抵触するのではないでしょうか。

「地球の表面が暖まる」「暖まった地表からは…」「空気が暖まる」「地球を暖める」=「大書小6上・72頁」

 

<太陽エネルギー・磯部 e三>=「日書小5下・30頁」

「太陽の光が当たる所では、あたたかく感じます」=「30頁」

「わたしたちの体を温めてくれるからです」=「30頁」

「水は、…太陽エネルギーによって温められて…」=「32頁」

ここでも、使い分けがあいまいです。

「広辞苑」には、

「暖」は気温・空気などに、「温」は身体・料理・気持ちなどに使うことが多い。

 

「ベネ小」には、

は「温かい料理」のようにおもに物や気持ちについて使う。「温かな心」

は「暖かな日ざし」のようにおもに気温について使う。「暖かい毛布」

 

「小館小」には、

気候には「暖」をそのほかは多く「温」を使う。

とあり、いずれもあいまいです。他の辞典もほぼ同じです。

 

「異字同訓」には、

暖かい・暖かだ・暖まる・暖める―暖かい心。暖かな毛布。暖まった空気。室内を暖める。

温かい・温かだ・温まる・温める―温かい料理。温かな家庭。心温まる話。スープを温める。

とあり、辞典の解説とほぼ同様ですが、「暖かい心」が違うのです。

 

「辞典」では、

「温かい心」=「偕成小」 「温かな心」=「ベネ小・中」 「温かい心の人」=「三省小」

「温かい(な)気持ち」=「三省小」「光村小」

 「心が温かい(な)人」=「旺文小」「学研小」

 

「学研現・27頁」では、

「『異字同訓』の漢字の使用法」(国語審議会)では、一般に「温かい心」とするところを「暖かい心」と示すなど、その使い分けには微妙なところがある。

と解説しているものもあります。また、新聞、放送なども「温かい心」を使っています。

このように、辞典や一般の社会生活の中で使われていない「暖かい心」が、「国語審議会」の発表されたものにあるのですから、混乱するのは当然です。

これは、「参考資料」として文部省に提出されたものですが、これが、世の中に公然と出回っていることも、

不思議なことです。

 

学校教育では、「微妙なところがある」として、あいまいにすることはできません。

この資料は、昭和47年6月28日の国語審議会総会における「当用漢字改定音訓表」の審議に際し、配布されたものです。言葉は生きものとも言われます。見直されてはいかがでしょうか。

 

「温かい」と「暖かい」の使い分け 「問答集」参照

 

 

あらわれる[現れる・表れる]

「新聞で宣伝した効果が現れました」=「学図小6上・126頁」

「効果が表れる」=「東書小6・102頁」

「効果があらわれる」「成果があらわれる」を辞典で調べてみると、

「効果が現れる」=「学研中・現・大」「ベネ中」「小現例」「小類語」「大辞林」「大辞泉」「小館大」

「成果が現れる」=「公文小」「小館小・中」「旺文国」

であり、

「薬の効果が表れる」=「公文小」

でした。

*「問答集」には、

 

 

太陽が地平線から姿を現す。 新人の中では、彼ががぜん頭角を現してきた。  長年の努力の積み重ねが、ようやく成果を現した。  一日一日と危険な症状を現している。 などのように、今まで隠れていたもの、今までなかったものを表面に出すという意味の場合は、「現」を使うようである。

 

とあり、

 

*「異字同訓」では、

 

 

表す・表れる―言葉に表す。喜びを顔に表す。喜びの表れ。

現す・現れる―姿を現す。太陽が現れる。怪獣が現れる。

 

 

であり、ここでは「効果(成果)をあらわす」は、どちらを使って書くかは分かりません。

 

結局のところは、「問答集」と辞典の多くが、「効果が現れる」としていますから、教科書もこれを提示するのが穏当かと思われます。

 

おやゆずり[(常)親譲り・親ゆずり]

<坊っちゃん ・ 夏目漱石>

「親ゆずりの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている」=「光村中1・92頁」

「親譲り」=「三省中1・211頁」

原作=「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る」

「親譲り」は、「常用表」の例欄に例示の語でもあります。

 

 あまりにも有名な文学作品の冒頭の一節が、なぜ、「親ゆずり」にしなければならないのでしょうか。出版社と検定官のご意見を伺いたいものです。このような作品の引用は、原典どおり提出する方が、より学習に深まりが出るのでないでしょうか。例えば、「小供」は、現代の辞典にはありませんが、「小供」を辞典で調べさせると、「こいぬ」は【小犬・子犬】、「こねこ」は【子猫・小猫・仔猫】とあることが分かったりもして、辞典に関心を持つようになったりするものです。ただし、「こいぬ」「こねこ」の見出し語を掲げている辞典は、大辞典だけです。これも不思議なことです。

[ぼっちゃん ・ ぼつちやん]

「坊っちゃん」=「学図中3・318頁」「教出中3・318頁」「東書中3・288頁」「光村中1・92頁」

「坊つちやん」=「三省中3・付録 28頁」

夏目漱石の作品「ボッチャン」は、「坊つちやん」と、「つ」と「や」が小書きではないのです。

「三省中」のみが「坊つちやん」で、他の4種は「坊っちゃん」である。これは、「検定基準」にいう不統一

ではないでしょうか。

 

こいぬ[子犬・小犬]

<五月のはじめ、日曜日の朝 ・ 石井睦美>

「子犬のくせにけっこう速い。」=「教出小5上・10頁」

「子犬なのにけっこう速い。」=「学図小5上・15頁」

原作は、「小犬のくせにけっこう速い。」です。

「小犬」が「子犬」に、「くせに」が「なのに」に改変されています。

「小犬」と「子犬」は、意味にちがいがあります。

 

「・・・小犬のような、そして獰猛な動物だという…」<故郷・魯迅 ・ 竹内 好訳>=「中3全教科書」

があります。ここでは、「小犬」を「子犬」とすることはできないでしょう。

作者が、「小犬」と表現したものを、「子犬」と改変するとは傲慢としか言いようがありません。

 

こうい[好意][厚意]

<「ありがとう」と言わない重さ・一の瀬 恵>=「三省中3」

「実に淡々と相手の好意を受け入れている」=「236頁」

「相手の好意に対する感謝の気持ちを…」「まるで相手の好意を買っているみたいで…」=「239頁」

「相手の好意に対する感謝の気持ちを表現します」=「245頁」

*「問答集」には、

 

コウイ的 コウイを持つ コウイを抱く コウイを寄せる コウイが芽を出す コウイを感じる

などの場合は、普通、「好意」が使われ、

コウイを受ける コウイを感謝する コウイを喜ぶ 

などの場合は、「厚意」が使われる。

 

とありますように、この教科書の「好意」は、「厚意」ではないでしょうか。

 

こもれび[木もれ日・木もれ陽]

「木もれ()がまぶしいということ」 <詩 生きる・谷川俊太郎>=「東書小5下・110頁」

「木もれ日がゆれて…」 <ちょうの行方・高田圭子>=「教出小6下・64頁」

「こもれび」という陰翳のある言葉は、「木もれ陽」がぴったりです。前段は「詩」ということで、原作どおり「木もれ陽」を提示し、後段は、「常用表」で、「陽」には「ヨウ」の音だけしか掲げられていないこともあり、「木もれ日」となっているのでしょう。この「木もれ日」だけでも、現行の教科書での国語教育は貧弱といわざるを得ません。現行の辞典も、ほとんどは「木漏れ日・木洩れ日」のように「日」だけです。

これでは、「常用漢字表辞典」といえそうです。

ただ一つだけありました。こもれび【木漏れ日・木洩れ陽】=「大辞林(三省堂)」です。

「常用表」に、「陽(ひ)」の読み方を掲げていないからといって、教科書(国語科)で用いてはならなという規定はありません。また、用いなければならないことが当然あります。例を挙げておきましょう。

 

ゆうひ[夕日・夕陽]

 

「『そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲の間から、夕陽は赤くななめにこけの野原にそそぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました』とあります。目をつぶって想像してみてください。夕陽の赤、白い火のようなすすきが見えてきませんか」<鹿(しし)踊りのはじまり・宮沢賢治>=「大書小6上・83頁」

これが「夕日」であったらどうでしょうか。

 

「陽射しがたくさん地上に刺さり」<虹の足・吉野弘>=「教出中2・82頁」

「陽射し」の「射」は、「常用表」では「さす」の読みはありません。だからといって、ここでは「日差(指)し」にはできないのです。

「オレンジ色の夕陽の中で、…」<時の輝き・折原みと>=「光村中1・86頁」

「一番高い山の端に陽がおちる」<五月の雉・蔵原伸二郎>=「光村中2・141頁」

 

「光村中3・139頁」に、このようなものもあります。

 

【表現に学ぶ】

さまざまな表現

〈精細に自然を描写した文〉

「中の海の彼方(むこう)から海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い灯台も陽を受け、はっきりと浮かび出した。まもなく、中の海の大根島にも陽が当たり、…」<暗夜航路・志賀直哉>

これも、「陽」が「日」であったらどうでしょうか。

 

さがす[探す・捜す]

「いっそう夢中になってわたしたちの姿を探し、…」<巨鯨の目・水口博也>=「光村中1・215頁」

「一層夢中になってわたしの姿を捜し、…」<クジラが人間を注目し始めた・水口博也>=「学図中2・86頁」

作者が同じで、ほぼ同じ内容のものが、「…を探し」「…を捜し」と漢字表記が違います。これは「探」と「捜」の持つ意味が異なりますから、どちらかが不適切ということになります。

筆者は、「探し」がよいと思います。

「捜す」と「探す」の使い分け 「問答集」参照

 

じゅうぶん[(文)十分・充分]

「幸治には僕の分も充分に勉強させてやって下さい」<兄からのはがき・佐江衆一>=「三省中1・224頁」

「めしべとおしべが揃っているだけでは不充分で…」<生命(いのち)は・吉野 弘>=「東書中3・8頁」

「文部用字」=「じゅうぶん」の書き表し方は、「十分」とし、「十分配慮する」「不十分である」の使用例を示していす。

 

しあわせ[幸せ・仕合せ]

<坊っちゃん ・ 夏目漱石>

 

「あなたはおかわいそうだ、不幸せだとむやみに言うものだから、それじゃ、かわいそうで不幸せなんだろうと思った」=「光村中1・102頁」

原作は、

「あなたはお可哀想だ、不仕合せだとむやみに言うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った」

日本の代表的な文学作品を引用するねらいの一つに、作者の用いた文字表現を学ぶことがあります。それを、現代風に変えてしまっては、学習効果は失われてしまいます。「仕合せ」は現代文でも使われているのです。

 

「…本当に仕合わせであった」<包む・やまだ ようこ>=「教出中2・177頁」

 

ちりばめる[ちりばめる・散りばめる]

「宝石のかけらを散りばめたようにも見えます」<流氷の世界・菊池慶一>=「大書小5下・107頁」

「ふたには小さなダイヤモンドが散りばめてあった」<二十年後・オー=ヘンリー ・ 大津栄一郎訳>

=「学図中1・104頁」

「ちりばめる」の漢字表記は、どのように書き表すのでしょうか。

小学生用辞典では、ほとんど「ちりばめる」と仮名書きです。漢字表記は、

ちりばめる【〈(×)める〉】(×=常用漢字表外の印)=「偕成小」「小館小」にあり、中学生用以上の辞典は、すべてこれで、中には、「散りばめる」は誤り、との注意書きがあるのもあります。

「鏤める」は、表外漢字ですから、小・中学校の教科書では、

「一面光の斑点をちりばめている」<カワセミ・図子英雄>=「三省中3・83頁」

「…緑や、美しい光でちりばめられてありました」<銀河鉄道の夜・宮沢賢治〈原作〉>

=「光村中1・254頁」

 

と仮名書きとされ、漢字で提示する場合は、当然、「鏤める」です。

いずれにせよ、「散りばめる」は、日本語ではありません。それが、以前から教科書で提出されているのですから呆れてしまいますし、恥ずかしいことです。

 

であい[出会い・出合い]

「大書小」

「こういうイヌのしぐさに出会ったら、…」=「3上・17頁」

「…目新しいものや耳慣れないことに出会ったとき、」=「6上・28頁」

「一枚のポスターとの出会い」=「6上・48頁」

「わたしの疑問に答えてくれる、いくつかの資料と出会った」=「6下・36頁」

 

「学図小・中」

「…美しいものに出会った時、」=「小3下・47頁」

「最近出会ったことの中から材料を見つけて…」=「小4下・43頁」

「いさむは、亀八という老犬との出会いによって、」=「小6下・70頁」

「不思議な光景に出会った」=「中3・93頁」

「大学通りを行き来する馬に出会うことがあったが、」=「中3・113頁」

 

「教出小・中」

「しっぽの生えたとかげに出会った時」=「小4上・18頁」

「くり返して同じようなできごとに出会うたびに、」=「小5下・88頁」

「新たな出会い」=「小6下・111頁」

「筆者は『石』と出会ったばかりでなく、バルセロナの『暮らし』そのものと出会った」=「中2・80頁」

 

「東書小・中」

「もうどう犬は…そこではいろんなことに出会います」=「小3下・56頁」

「シマウマの群れに出会えたのは…」=「小5上・57頁」

「人間と暮らす馬や牛、犬や猫たちに出会えます」=「中2・96頁」

「私は一つの困難に出会った」=「中2・236頁」

 

「光村小・中」

「(フクロウ)…なかなか出会えない」=「3上・5頁」

「このヤドカリは、もう一ぴきのヤドカリに出会いました」=「3上・22頁」

「こわい動物に出会ってしまいます」「こわそうな動物に出会ったり」=「3下・76頁・78頁」

「月の光をたよりに、みみずくとの出会いを求めて、…」=「5下・94頁」

「初めて出会う漢字でも、…」=「6上・52頁」

「すべての美しいものに出会うということ」=「6下101頁」

「これからは、苦しいことに出会っても、…」=「中1・180頁」

 

「三省中」

「最近つくづくカバと出会えて…」=「1・104頁」

これらの教科書では、このように、人と人との「であい」以外の場合でも、「出会う」を用いています。

この教科書で学んだ子供達は、「であう」は、「出会う」と書くものと刷り込まれてしまうことでしょう。

この「であい」を、「出会い」・「出合い」と見事に書き分けて提出している教科書が一つだけありました。

それは、「わたしたちの小学国語(日本書籍)」にです。

「松井さんが出合った不思議な出来事や…」=「4上・42頁」

「こうして出合ったおすとめすは…」「おすとめすが出合うための…」=「4上・49・50頁」

「三千年の昔、そのいねと初めて出合った先ぞたちは、…」=「4下・83頁」

「わからないことに出合ったら…」=「5下・77頁」

「心に強く感じる言葉や文章に出合ったら…」=「5下・94頁」

「地震に出合う前の…」=「6上・42頁」

また、

「同じことに出あったときでも…」<みんなのなかで生きる・田宮輝夫>=「6下・70頁」

のように、仮名書きが穏当としているものもあります。

 

さらに、

「私たちは、これまでに教科書や図書室の本などで、たくさんの詩に出会いました」=「6上・44頁」

これは、「詩に出合いました」ではないのか、という人もいるかも知れませんので触れておきます。

この「詩に出会いました」に後に、

「詩人の書いた詩を読んで、表現のおもしろさ、豊かさに感心し、心が動かされたことがありました」と続いています。

「詩人の書いた詩」という、人と人との「であい」の場合の比喩的用法であり、自然な書き表し方です。

 

この教科書で学んだ子供達は、この「であい」の漢字の用法だけで、言葉のおもしろさ、豊かさに触れることができるのです。

一般的に、教科書は正しいものと受け止められていますから、作者や教科書出版社の提出のままですと、ともすれば、偏向することになり、辞典などに影響し、混乱しかねません。

ここで、その混乱している例を挙げておきます。

 

小学生用の国語辞典に、「出合う」が掲げられていないものが出てきます。

「学研小」「偕成小」・「文英小」・「光村小」には、「出合う」が掲げられておりません。

「光村」は、「光村図書発行の教科書の表記を基準としている」といいます。

「学研」は、「小学校の教科書でも会の使用のみですから、学研としましては、小学校の辞典では会のみを標準表記としています」「教科書は文部省の検定を受けていますので、私共は漢字の使用につきましても、文部省の見解であると理解しております」というのです。

 

また、学校、学習塾などで「出会う」だけしか教えかねません。

現に、全国に展開する「学研教室」の「実力診断テスト(小4学年対象)」に、

「ふとライオンに 〔であ〕う などということは、めったにありません」

この 〔であ〕う を漢字で書きなさい という問題があります。

解答集には、「出会う」とあり、「出合う」は×であるというのです。その理由は、「このような場合も、教科書ではすべて『出会う』であるからです」というのです。

教科書は、お手本ですから、その影響は絶大です。

 

子供達は、「会う」と「合う」の書き分けを学習しています。「出合う」は学習していません。それでも、「ライオンは動物だから…」と考えて、「出合う」と答えるのです。なんと自然で、純粋な解答でしょう。これを20年以上も×として切り捨ててきたのです。子供達にとって、この×はとても重いものです。学研教室は、当然、謝罪すべきでないでしょうか。この当たり前のことができなくて、教育改革を論ずる資格はありません。

「出会い」か「出合い」か 「問答集」参照

なお、この学研教室のことにつきましては、

http://homepage2.nifty.com/YOSHIMI/

で、

「学校教育を補完する」という「学研教室」の教材について、小・中全学年分を指摘しております。この種、教育産業の実態を垣間見ることができます。

 

ととのえる[整える・調える]

「したくを整える」=「教出小3上・44頁」

「服装を整える」=「東書小3下・101頁」

「必要な道具を整える」=「東書小4上・105頁以降6下まで」

*「問答集」には、

 

例えば、同じ「道具をととのえる」でも、使いっぱなしや出しっぱなしにしてあるたくさんの道具類を片付け、使いやすいようにきちんと並べるような場合は、「道具を整える」、何かをするために、必要な道具類を全部買いそろえるような場合は「道具を調える」、とするのが普通である。

 

 

 

とまる[止まる・留まる]

きの えだに ことりが とまる」

「(つばめ)…ちかくの 電線や やねに 止まります」=「教出小2上・31頁」

「アブラゼミが木に止まって…」=「日書小3上・33頁」

「コスモスの花の上に、カマキリが止まって…」=「日書小3上・36頁」 

「もんしろちょうは 花に止まって、…」=「教出小4上・34頁」

「小鳥は…岩角に止まって…」=「学図小4上・50頁」

のように提示されています。

子供達はもとより、多くの人々は、「木の枝に小鳥が止まる」と書きます。

「止」は、2学年の配当漢字ということで、「小鳥が止まる」を用いることによるものと思われます。

本来は、「小鳥がとまる」は、「小鳥が留まる」なのです。「留」は5学年の配当漢字ですが、上記の教科書では5学年で「小鳥が留まる」の提示はありませんし、中学の教科書でも同じです。

「ちょうど木の枝に止まろうとするところだった」=「光村小5下・110頁」

「庭の池の中の木立に鳥が止まっている」=「光村中1・200頁」

「白いちょうが階段の手すりに止まっておりました」=「三省中1・62頁」

「きれいな ちょうが 枝に 止まった」=「三省中1・64頁」

などなど。

一社だけ、「止まる」と「留まる」を書き分けている教科書がありました。

それは、「新しい国語(東京書籍)」です。

 

「しっぽの 先に ちょうちょを とまらせて、」=「2上・4頁」

「木のえだにとまっていると…」=「3上・33頁」と仮名書きとし、

漢字では、「時計が止まる・自動車が止まる・息を止める」を提示し、

「留」は、5学年の配当漢字となっていますから、ここで、

「鳥が枝に留まる」=「5上・86頁」「6上・118頁」を提示しているのです。

 

「東京書籍」以外の教科書で学んだ人は、「…留まる」の提示がないのですら、「小鳥が木の枝に留まる」の本来的な表現を知らないでしまうことになります。

 

「異字同訓」には、

「小鳥が枝に留(止)まる」

と示されています。

だからといって、教科書で、どちらを使ってもよいでは困るのです。

 

「学年別漢字配当表」の扱い方については、「検定基準」の別表、漢字の表記の基準に、「小学校に

おいて使用する漢字は、国語科を除き『学年別漢字配当表』に示されたその学年までの漢字に限るものとし…」とあります。すなわち、「学年別漢字配当表」は、国語科を除いているのです。

国語の学習において、漢字使用が制限されないということです。各教科書出版社(この基準を作った文部省も)は、この「学年別漢字配当表」を国語科にも適用しているように思われます。

 

とる[採る・捕る]

<少年の日の思い出 ・ ヘルマン=ヘッセ ・ 高橋健二訳>

学図中1

教出中1

光村中1

「ちょうを捕りに出かけると…」=「223頁」

「チョウを採りに出かけると…」

=「240頁」

「ちょうを採りに出かけると…」

=「221頁」

「…捕らえる喜びに息も…」

=「224頁」

「…とらえる喜びに息も…」

=「242頁」

「とらえる喜びに息も…」

=「222頁」

「青いこむらさきを捕らえた」

=「226頁」

「青いコムラサキをとらえた」

=「243頁」

「青いコムラサキをとらえた」

=「224頁」

「捕る」「採る」「とる」だけでなく、 「ちょう」「チョウ」、「こむらさき」「コムラサキ」、「つまる」「詰まる」 と

ありますが、これも「不統一」です。

 

さて、「ちょうをとる」は、「捕る」か「採る」か、どちらがよいのでしょうか。

 

辞典では、

「虫を採る」「昆虫を採る」=「旺文小」「学研中・現」「三省中(ハチを採る)」

「虫を捕る」「昆虫を捕る」=「偕成小(セミを捕る)」「講談小」「公文小」「小館小」「光村小」「旺文中」「小現例」「大辞林(ちょうを捕る)」

「ベネ中」=(注意)「動物・ボールなどの動くもののときは『捕る』、植物などの動かないときは『採る』のように書き分けることが多い」

 

「昆虫を採る」「とんぼを捕る」=「学研小」

「こん虫を採る」「セミを捕る」=「三省小」「ベネ小」

このような混乱したものもあります。

 

ここでも、子供達の悲鳴が聞えてきます。

 

「問答集」には、

「採る」は、血液(きのこ・標本・卒業生・・決)を採る。のように、「選んでとりあげる」「ひろいあげる」意味の場合に使う。

「捕る」は、 ねずみ(虫・飛球・ゴロ)を捕る。 生け捕る。 分捕る。 捕り物。 のように、「とりおさえる」意の場合に使う。

「採る」と「捕る」の使い分け 「問答集」参照

 

「異字同訓」には、

採る―血を採る。 高校の卒業生を採る。 会議で決を採る。

捕る―ねずみを捕る。 生け捕る。 捕り物。

 

結局のところ、「問答集」にもある、「虫を捕る」のように、「(逃げるかも知れないものを)とりおさえる」「とらえる」という意味の場合には「捕る」を、「指先でつみとる」「ある部分だけを選びとる」という意味の場合には「採る」と書き分けるのが穏当でしょう。したがって、「ちょうをとる」は、「ちょうを捕る(学図中)」がよいと思われます。

 

のぼる[上る・登る]

<モチモチの木 ・ 斎藤隆介>

 

「…とうげ道を、えっちら、おっちら、じさまの小屋へ登ってきた」=「日書小3下・9頁」

「…とうげ道を、えっちら、おっちら、じさまの小屋へ上ってきた」=「光村小3下・94頁」

 

ここにも、同じ作品でありながら「登る」「上る」と漢字表記が違うのです。原作は「のぼってきた」と仮名書きです。

 

「教出小・中」

「さかを上る」=「小1下・23頁」 「谷川にそって上り…」=「小2下・41頁」 「上り坂」=「小3下・17頁」

「おかに登りました」=「小3下・81・90頁」 「太陽が上りはじめました」=「小4下・76頁」

「登り坂にかかってくると」「その坂をあえぎながら登ったのだろう」=「中3・286・287頁」

 

「坂を上る」 「上り坂」=「東書小3下・93頁」

 

現代では、「登坂車線」という言葉もあり、「坂を登る」と書いても何らおかしくないでしょう。

作品の中に「登る」を用いた例がいくつもあります。

 

「車は止まらないでそのまま静かに登った」<雪国・川端康成>

「じいさんが細い急な坂道をよちよち登って来るのが見えた」<暗夜航路・志賀直哉>

「…線路沿いの坂を登ると…」<自由学校・獅子文六>

 

今の学校教育では、「坂を登る」は間違いとされるのです。その例を教科書で示しておきます。

 

「光村小4下・88・89頁」

漢字には、読み方が同じでも、意味のちがうものがあります。意味をよく考えて、正しく使いましょう。

次の文では、どちらの漢字を使えばいいでしょうか。

        

坂を( 登 ・ 上 )ると無数の星が見えた。

        

これは、「坂を上る」を学ばせるためのものでしょう。「小3下」の、モチモチの木で、「…とうげ道を、えっちら、おっちら、じさまの小屋へ上ってきた」を学んでいるし、「光村小」を引いて見ると、「坂を上る」「上り坂」しか見当りません。

 

子供達の悲鳴が聞えてきます。「意味をよく考えて、正しく使う」のは、この教科書を編集した方々であり、文部省の検定官ではないでしょうか。

 

はかる[測る・量る・計る]

「体重をはかる」 「重さ・目方をはかる」 「水の量をはかる」

この「はかる」を漢字で書き表す場合は、「測る」「量る」「計る」のうちのどれでしょうか。

 

教科書では、

 

「量る」

「重さを量る」=「教出小4下・129頁」「日書小5下・29頁」

「目方を量る」「中に入る水の量を量る」=「東書小4下・111頁」

 

「計る」

「おもさを計る」「たいじゅうを計る」=「教出小2下・27・90頁」

「重さを計りました」「重さを計るのも…」「一つ一つ計らなくても」「計った材料を…」=「三省中1・156頁」

 

「測る」

「体重を測る時」=「教出中3・246頁」

「水量を測る」=「日書小6上・103頁」

 

ここでも、子供達の悲鳴が聞えてきます。

 

「温度・水温・室温・体温をはかる」

この場合の「はかる」はどうでしょうか。

 

教科書では、

「体温計で計る」=「学図小2下・63頁」

「おんどを計る」「温度を計る」=「東書小2上・74頁」「小3上・62頁」「小3下・102頁」「小4上・107頁」

「水温を計ってみたが…」=「光村中2・156頁」

「室温を計る」=「光村中3・171頁」

というように、いずれも「計る」です。これは、「温度計」「体温計」など「計」に引きずられて、「温度を計る」「体温を計る」となったものと思われます。

体温、室温、水温や血圧などをはかる場合は、普通、体温計、温度計、血圧計などの計器類を用いて「はかる」のですから、「体温を測定する」「体温を測る」「血圧を測定する」「血圧を測る」が正しい書き分けなのです。

 

辞典には、

「体温を測る」=「広辞苑」「小館大」「大辞林」

「体温を測定する」=「大辞泉」

「血圧を測る」=「光村小」」

 

「温度計」=「温度を測定する計器」=「大辞林」 「温度を測定する器具」=「小現例」「小館大」

「物体の温度を測る装置」=「広辞苑」

 

*「問答集」には、

 

「測」の方であるが、これは「測距儀・測深器」など一定の尺度によって長さを明らかにする場合に用いる。「距離を測る」「面積を測る」「などがこれに当たり、関連して「水深・標高・速度」なども「測る」になる。その他、一定の尺度で測定する場合もすべて「測る」で、「性能を測る」「能力を測る」などとなる」

 

「速さをはかる」はどうでしょうか。

 

「車の速さを測る」=「学図小6・127頁」

「人の脈の速さを測る道具」=「日書小6上・91頁」

とこれはいいのですが、

 

「脈を計る」=「東書小6上・91頁」

「雨の酸性度の計り方」=「教出6上・45頁」

「ヤドカリは自分の体に合う貝の大きさをどうやって計ったのだろうか」=「教出中3・246頁」

とあります。これも「測る」でなければならないでしょう。

 

不適切な教科書の例を挙げておきましょう。

 

「教出小6下・100頁」

    意味や使い方に注意して□にあてはまる漢字を書きましょう。

 

百メートルのタイムを□る。  体重を□る。  切り株の直径を□る。 ( 量 ・ 計 ・ 測 )

 

これは、上から「計」「量」「測」と答えさせるものでしょう。こんな決めつけ教育が、現在も行われているのです。

基本的な正答は、どれも「測」なのです。

 

はがき[(文)はがき・葉書]

「はがきぐらいの大きさ」=「教出小3上・84頁」

「官製はがき」=「東書小4上・97頁」「5下・117頁」「6上・106頁」

のように仮名書きです。

この「はがき」「葉書」は、「郵便はがき」の略であり「はがき」と書くのがふつうなのです。

小学生用の辞典の中に、「はがき」の見出しだけで、漢字の表記のないものもあるくらいです。

「ベネ小」「光村小」です。

「文部用字」には、「葉書、端書」は「はがき」と仮名書きで書き表すように示しています。

教科書では、

「字のない葉書・向田邦子」=「学図中1・150頁」は、原作のままのものもありますが、

「字のないはがき・向田邦子」=「光村中2・114頁」と仮名書きに改変しているのもあるくらいです。

教科書では、当然、「はがき」であるべきところに、漢字と提出されているものがあります。

「学図小6上」

「書き損じの葉書や、…」=「52頁」

「書き損じの葉書き一枚で…」=「53頁」

しかも、左右のページで、「葉書」「葉書き」と提出されているのですから、唖然とするばかりです。

「葉書き」と「き」の送り仮名をつけた表記を、掲げている辞典はありません。

これが、日本の教科書の実態なのです。恥ずかしく悲しい限りです。

 

ひとり「一人・独り」

<五月の初め、日曜日の朝 ・ 石井睦美>

 

「…バウがいないのに、どうして走らなくちゃならないのさ。ぼく独りで。」「…今、ぼくは独りで走る」

=「学図小5上・12頁・22頁」

「…バウがいないのに、どうして走らなくちゃならないのさ。ぼく一人で。」「…今、ぼくは一人で走る」

=「教出小5上・8頁・18頁」

 

原作は、「…ぼくひとりで。バカみたいに。」「…いま、ぼくはひとりで走る。」

原作は、「ひとり」と仮名書きである。それを漢字で書き直しているが、「一人」「独り」と教科書ごとに表記が違います。もちろん、表現意図が異なってきますし、「検定基準」の「不統一」に抵触します。

 

ふうてい[風体・風態]

〈走れメロス・太宰 治〉

 

「風体なんかは、どうでもいい」=「学図中2・131頁」「教出2・248頁」「光村中2・106頁」

「風態なんかは、どうでもいい」=「三省中2・202頁」「東書中2・150頁」

 

原作は、「風態」です。

 

ふうてい【風態】は、辞典にはありません。「常用表」の例欄には、「風体」の例示があります。

だから、「学図」「教出」「光村」は、「常用表」によったのでしょうか。

それならば、同作品の、

「辺りをはばかる低声(こごえ)で…」=「学図・教出・光村・三省」

「辺りをはばかる小声で…」=「東書」

とあり、「低声(こごえ)」は、辞典にもなく、表外の読み方です。「風態」はだめで「低声」はよいでは、一貫性がありません。

ここは、やはり法(「検定基準」)に依って、「原作を尊重していること」に従うべきではないでしょうか。この有名な作品が、教科書ごとに表記が異なることは、いかなる理由をつけようとも、いいわけはありません。

 

ぶきみ[不気味・無気味]

「教科書」では、

「…不気味に光ってうごめいて…」=「東書小6上・55頁」

「…かの不気味な、美しい顔を見て…」=「教出中2・72頁」

「…ちょっと不気味な現代詩集」=「光村中2・304頁」

辞典のほとんどは、ぶきみ【不気味・無気味】と「不気味」を優先した併記で掲げています。

ぶきみ【不気味】「無気味とも」=「光村小」「小類語」

ぶきみ【不気味】のみのもの=「三省国」

NHK」「新聞用語」=「不気味」に統一しています。

 

ところが、教科書に「無気味」の提出があるのです。

「不器用・無気味・不用心」=「東書小4上・108頁」「同4下・132頁」

これは校正ミスでしょうが、検定ミスでもあります。「ミス」で済まされないのが「検定制度」の厳しいところです。これを見た文部省は直ちに処置を講じなければなりません。子供達は、こんなミスは見逃しません。「あっ!教科書が間違っている?!」と目を輝かせます。

「ドドーッという無気味な音を聞きました」<木の葉の魚・安房直子>=「学図中1・67頁」

「老齢のような、ひっそりした無気味さが辺りに沈殿していた」<たそがれ・星 新一>

=「学図中2・145頁」

 

この「無気味」は、原作を尊重したというのであれば、先の、「坊っちゃん」「走れメロス」「小さな手袋」など、原作どおりでない教科書があるのは、矛盾します。

 

さらに、付け加えますと、

「検定基準」には、「漢字…などの表記は適切であって、不統一はなく、…」とありますが、「無気味」「不気味」と両様の提示は「不統一」とは言わないのでしょうか。

「不気味」か「無気味」か 「問答集」参照

 

 

ふなぞこ[船底・舟底]

「全員が船底に腹ばいになって、…」「船底から見上げたわたしの目と…」

<クジラが人間を注目し始めた・水口博也>=「学図中2・85・86頁」

 

「全員が舟底に腹ばいになって、…」「舟底から見上げたわたしの目と…」

<巨鯨の目・水口博也>=「光村中1・214・215頁」

「ふなぞこ」を辞典で引くと【船底】です。光村図書の教科書だけであっても「舟底」を提出してあれば、

辞典は、ふなぞこ【舟底・船底】と併記すべきでしょう。自社発行の教科書の表記を基準としているという

「光村小」も、「ふなぞこ」には【船底】だけしか掲げておりません。

 

 

まじる[交じる・混じる]

<大造じいさんとがん ・ 椋 鳩十>  (「光村」は、「がん」を「ガン」と提示)

「左右のつばさに一か所ずつ、真っ白な混じり毛をもっていたので、…」=「大書小5下・56頁」

「左右のつばさに一か所ずつ、真っ白なまじり毛を持っていたので、…」=「学図小5下・8頁」

「左右のつばさに一か所ずつ、真っ白なまじり毛を持っていたので、…」=「東書小5下・4頁」

「左右のつばさに一か所ずつ、真っ白な交じり毛をもっていたので、…」=「光村小5下・4頁」

同じ作品でありながら、教科書ごとに、このように違いがあるのはなぜでしょう。

原作は、

「左右の翼に一箇所ずつまっ白なまじり毛をもっていたので、…」

です。「翼」「箇」は、小学年配当漢字外であるから「仮名書き」はやむを得ないかも知れませんが、「、」「真っ白」「混じり毛」「交じり毛」「持って」などの改変は、許されるのでしょうか。

ここで解説するまでもなく、

「左右の(つばさ)に一()所ずつまっ白なまじり毛をもっていたので…」と振り仮名を付けるか、

「左右のつばさに一か所ずつまっ白なまじり毛をもっていたので、…」とするのが、許される改変ではないでしょうか。

「もっていた」と「持っていた」

「まっ白」と「真っ白」

「まじり毛」と「交じり毛」「交じり毛」

「、」の有無

このことだけで、作者の表現意図が変わってしまうのです。

だからこそ、「検定基準」の国語科固有の条件の一つに、

「学習指導上の配慮による表現内容の改変は最小限にとどめ、原則として、原作を尊重していること」

「検定基準」参照 

と定めているのではないでしょうか。

 

めぐりあい[巡り会い・巡り合い]

「『日本の伝統パッケージ展』に会期終了まぎわにめぐり会えたのは、…」=「教出中2・177頁」

「研究者にめぐり合うことができた」=「教出中3・48頁」

「暑い日に巡り会うたびにそう思います」=「三省中1・93頁」

「…敵にようやく巡り合ったとき…」=「東書中2・93頁」

「高い山に登って、こんなすばらしい光景に巡り合った自分は…」=「光村中3・14頁」

先の「であい」などという意味に使われる「めぐりあい」という言葉の漢字表記は「巡り会い」か「巡り合い」かという問題です。

これも、「であい」と同様に、人と人とのめぐりあいの場合には「巡り会い」を、それ以外の場合は「巡り合い」を使うのが、現実的な書き分けの方法であると思われます。

 

「であい」と同じように、全く節度がないことがお分かり頂けると思います。

 

■読み方

 

天の香具山[あめのかぐやま・あまのかぐやま]

春過ぎて夏来るらし白たへの衣()したり(あま)の香具山

「学図中3・174頁」

 

春過ぎて夏きたるらし白栲(しろたへ)の衣()したり(あめ)香具山( か ぐ やま)

「教出中3・176」

 

春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり(あめ)香具山(か ぐ やま)

「三省中3・114頁」

 

春過ぎて夏きたるらし白たへの衣ほしたり(あま)香具山(か ぐ やま)

「東書中3・118頁」

 

春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたへ)の衣()したり(あま)香具(かぐ)

「光村中3・184頁」

 

(あま)」か「(あめ)」か、同一作品において、読み方が違います。よく見ますと読み方ばかりでなく、教科書ごとにどこかに違いがあります。

 

「夏きたるらし」「夏来たるらし」「夏来るらし」

「白たへ」「白栲(しろたへ)」「白栲(しろたえ)」=「光村」の「栲」は「栲」の異体字を用いています。(ワープロで表現できませんでしたので「教出中」の「栲」と同じにしました)

「衣乾したり」「衣干したり」「衣ほしたり」

「学図」の「夏来るらし」は、同書の196頁では、「夏来たるらし」とあり、不統一です。

これだけバラバラであれば、「検定基準」にいう不統一・矛盾はいうまでもなく、誤りや不正確なところがあるはずです。

 

「東書(117頁)」に、

「春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山」

の口絵が載っています。

どれが、原作を尊重した表記と読み方でしょうか。明らかにして欲しいものです。

 

着替える[きかえる・きがえる]

「いそいで きがえると…」=「日書小2上・73頁」

「大いそぎで 体そうふくに きがえた」=「大書小3上・24頁」

「白い着物に着がえさせ…」=「教出小4下・99頁」

「すぐに着がえるように言うと…」=「光村中1・136頁」

のように「きがえる」が目につきます。

 

辞典を引いてみますと、

「きかえる」の見出しを掲げているのは、

「旺文小・中・国」「偕成小」「公文小」「講談小」「文英小」「光村小」「学研中・現・大」「小館中・現例・類語・大」「岩波国」「広辞苑」「大辞林」「大辞泉」

NHK」=きかえる(発音は「キガエル」とも)

 

「きがえる」の見出しを掲げているのは、

「学研小」「三省小・中」「小館小」「ベネ小・中」

です。

 

「学研現」には、「参考:『きかえる』が本来的」。 また、「岩波国」には、「名詞形『きがえ』にひきずられてか『きがえる』と言う人がふえてきた」と解説しています。

たしかに「きがえる」という人が多くなっています。だからと言って、教科書で提出していいことにはならないと思います。慣用が定着して、辞典の見出しが「きかえる・きがえる【着替える】」と掲げるようになればいいでしょう。

現行では、「きかえる」が標準的な読み方です。

 

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